共有

第89話 心が追いつかない朝

last update 公開日: 2026-08-16 19:00:14

目覚ましの音が、夢の残り香を乱暴にかき消した。

 朱里はゆっくりとまぶたを開け、天井を見つめた。

 ぼんやりとした意識の中に浮かぶのは、昨夜の雨の音。そして、車の中の沈黙。

 ──「中谷さんだから、なんだよ」

 その言葉が、耳の奥で何度も反芻される。

 寝起きの心臓には刺激が強すぎる。顔が一気に熱くなって、布団の中に潜り込んだ。

「な、なんなのあれ……」

 独り言がこもった声になって空気に溶ける。

 思い出すたびに胸がぎゅっとして、どうしようもなく嬉しくなる。

 だけど同時に、怖くもあった。

 好き、なんて簡単な言葉で片づけてしまうのが惜しいほど、この感情は複雑で、甘くて、痛い。

 ──“理由なんてない”。

 嵩のあの言葉を、どう受け止めればいいのか分からない。
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第108話  雨上がりの“続き”なんて聞いてない

    応接室の空気は、朝の静けさと、ふたりの緊張が溶け合ったように、妙にやわらかく、落ち着かない。 朱里は、手のひらで膝の上のスカートの布をそっとつまむ。 指先が、いつもよりすこしだけ強く震えていた。 「えっと……その……続きって、どの……部分でしょうか」 曖昧に笑うと、嵩は「逃げた」と気づいたような目をした。 でも責めるような色はなく、むしろ困ったように優しい。 「……全部、かな」 「ぜ、全部……!?」 「うん。中谷さんが“また映画行きたいです”って言ったことも、 その後で急に瑠奈さんに会って、言えなくなったことも。 俺、ちゃんと話したかったんだ」 朱里の心臓は、最初のコーヒーみたいに熱くて落ち着かない。 (やっぱり……覚えてたんだ……) 朱里は自分で言った“また映画行きたい”を思い出して、机の下で足をもじもじさせた。 「……あれは、その……勢いで言っただけで」 「勢いでも、嬉しかったよ」 「っ……!」 びっくりして顔を上げると、嵩は少し照れたみたいに目をそらした。 「映画の感想、話す中谷さん……すごく楽しそうだったから。 “また行きたい”って言われて……俺も、また一緒に行きたいと思った」 反射的に朱里は口を開く。

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第107話  月曜、少しだけ早く来た理由

    土曜日の朝。朱里は布団の中で、昨夜の出来事を思い返していた。 ──雨上がりの夕方。 嵩と並んで歩いているところを、突然、「おっ、平田さんと中谷先輩だ!」 と声をかけてきたのは、コンビニ袋をぶら下げた望月瑠奈だった。 あまりにも自然に、あまりにもピンポイントに。 隠れる間もなく、真正面から見られた。(……あれ絶対、誤解されてる……) 瑠奈の「え〜、なんか雰囲気よかったですねぇ♡」という軽い笑顔が脳裏にこびりついて離れない。 その後の会話で、朱里は説明も否定も曖昧なまま逃げるように別れた。 だからこそ、土日はずっと落ち着かなかった。(平田さんは、どう思ったんだろ……瑠奈にあんなふうに声かけられて) そのもやもやを抱えたまま、週末が過ぎていった。 ──そして、月曜の朝。 気付けば朱里は、いつもより15分早く会社に着いていた。(いや……別に、嵩さんに早く会いたかったわけじゃない。 ただ、週明けってバタつくし、気持ちの準備が必要だっただけで……たぶん) 自分に言い訳しつつエントランスを抜けようとした瞬間──「……あ、中谷さん。おはよう」 その声に、朱里の体はびくっと反応する。「ひ、平田先輩……! おはようございます!」 振り向けば、朝の光の中で少し眠たげに微笑む嵩の姿があった。「早いね。珍しい」「っ……まあ、色々あって……」

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第106話  濡れた傘と揺らぐプライド

    玄関の照明がふっと灯り、朱里は濡れた傘を軽く振って水滴を落とすと、いつものように玄関脇の傘立てに差し込んだ。コートも丁寧にハンガーに掛ける。 仕事で疲れ切った夜でも、部屋を煩雑にしたくない──それが朱里のささやかなこだわりだった。 「ただいま……」 小さくつぶやきながらリビングに足を踏み入れると、室内は静まり返っている。エアコンの送風音だけが、残った湿気を押し出すように唸っていた。 ソファに腰を下ろし、朱里は深い息を吐く。 今日のプレゼン……あの場面までは完璧だった。 瑠奈の“補足”が入るまでは。 彼女の後輩であり、最大のライバル。 そのひと言で、空気が変わった瞬間を思い返すと、胸がざわつく。 ──なんであんな言い方をするのよ、瑠奈。 悔しさと、焦りと、負けたくない気持ち。 混ざり合った感情が、胃の奥で重く沈んでいた。 そのとき、スマートフォンが震えた。 画面に表示された名前を見て、朱里は思わず息をのむ。 「平田嵩」 今日のプレゼンで、最も評価してほしかった相手。 でも、彼が瑠奈の意見に頷いたのも事実だ。 通話か、メッセージか──どちらでもない。 通知は “未読メール” を示していた。 朱里は指先でタップした。《傘、急ぎじゃないので気にせず使ってください。今日は付き合ってくれてありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね》「……っ」 また心臓が騒ぎだす。(こんな優しい言い

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第105話  雨上がりの温度

    美鈴たちが角を曲がって消えていくのを見送った瞬間、 雨上がりの道が、やっと静けさを取り戻した。 朱里は胸の奥で、ほわっと何かが溶けるような感覚がした。(……二人きり。ほんとに、二人きり……) さっきまでのドタバタが嘘みたいに、足音だけが並んで響く。「さっき……すみませんでした」 朱里は思わず切り出してしまう。「なんか……巻き込んじゃって」 嵩は、歩くスピードを朱里に合わせるようにゆるめた。「巻き込んだのは僕のほうですよ。誘ったのは僕なので」「でも、その……瑠奈ちゃんもいて……」「賑やかで良かったですけどね」「いや、賑やかすぎましたよ……!」 言った瞬間、朱里の声が思ったより大きくて、 自分で驚く。 嵩がふっと笑った。「中谷さんって、意外と感情出ますよね」「で、出ませんよ……!?」「いえ、出てます」 朱里は耳まで赤くなる。(や、やめて……そんなやさしい顔で言われたら……!) なんで“やさしい顔”って自覚してるんですか、この人は。 嵩はふと立ち止まり、ポケットからハンカチを取り出した。「……ここ、濡れてますよ」 そう言って、朱里の肩にそっと触れ── 雨のしずくを拭ってくれた。「っ……!」(近……っ!!) 一瞬で心臓が跳ねる。

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第104話  救出劇は予想外に

    「……あれ?中谷さん、望月さん、それに……平田さんも?」 角を曲がったところに、 仕事帰りの 田中美鈴 が立っていた。 (……なんでこうも続けざまに……!?) 美鈴は事情を察したのか、にたりと口角を上げた。 「ほぉ……なるほどね?」 「な、なるほどじゃないです!!」 朱里は両手をぶんぶん振って否定するが── もはや誰も信じていない顔だった。 (どうして……ほんとにどうして……こうなるの……?) 朱里の心の叫びは、秋の夜空に吸い込まれていった。 瑠奈と美鈴が合流してしまった帰り道。 雨上がりの夜気はひんやりしているのに、朱里の顔は火照りっぱなしだった。 (な、なんでこうなるの……!?せっかく二人で歩くはずだったのに……!) 歩く列は、 前に嵩と朱里、 後ろに瑠奈と美鈴という奇妙な隊列。 その後ろ組が──やかましい。 「で〜?お二人はいつからの仲なんですかぁ?」 「いやいや、瑠奈ちゃん、圧がすごいわよ。逃げ道ふさぐタイプじゃん」 「逃がす気ないんで」 「こわっ!?笑」 美鈴のツッコミが軽快に入る。 (美鈴……助けて……!)

  • 大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。   第103話  三歩先の距離

    夜風がまだ少しだけ湿っていて、雨上がりの匂いが残っている。 三人で歩く帰り道は、どうしてこんなにも“気まずさ”がよく響くのだろう。「いや〜、ほんと偶然でしたね!」 瑠奈はテンション高めに、コンビニ袋をぶらぶらさせながら言った。「うん、まあ……偶然だね」 嵩さんは苦笑い。ただ、歩く速度は自然と私に合わせてくれている気がする。 なのに。「中谷先輩、歩くのちょっと早くなってません?」 瑠奈が笑って言う。「えっ!? そ、そんなことない!! むしろ大嫌いだから早歩きになってるだけ……」 また言った。 また言っちゃった。 大嫌い……本当は全然そんなことないのに。「大嫌いって言いながら歩幅合わせてくれてるの、可愛いですよね」 瑠奈がにやり。「はぁ!? 可愛いとか言わないで! ほんと大嫌い!!」「……中谷さん」 嵩さんが横で、困ったように、でもどこか優しい声で呼ぶ。「な、なんですか」「それ、照れてるときの言い方だよね?」 ──死ぬ。 いや、今すぐ地面に吸い込まれて消えたい。「ち、ちが……! 違うもん……!」 声が裏返って、さらに恥ずかしい。 瑠奈がくすくす笑いながら言う。「平田さん、絶対わざと言ってますよね、それ」「別に、わざとじゃないよ」 と言いながら、嵩さんは少し視線を落とす。 その横顔が、なんかずるいくらい

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status