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第89話 心が追いつかない朝

last update publish date: 2026-08-16 19:00:14

目覚ましの音が、夢の残り香を乱暴にかき消した。

 朱里はゆっくりとまぶたを開け、天井を見つめた。

 ぼんやりとした意識の中に浮かぶのは、昨夜の雨の音。そして、車の中の沈黙。

 ──「中谷さんだから、なんだよ」

 その言葉が、耳の奥で何度も反芻される。

 寝起きの心臓には刺激が強すぎる。顔が一気に熱くなって、布団の中に潜り込んだ。

「な、なんなのあれ……」

 独り言がこもった声になって空気に溶ける。

 思い出すたびに胸がぎゅっとして、どうしようもなく嬉しくなる。

 だけど同時に、怖くもあった。

 好き、なんて簡単な言葉で片づけてしまうのが惜しいほど、この感情は複雑で、甘くて、痛い。

 ──“理由なんてない”。

 嵩のあの言葉を、どう受け止めればいいのか分からない。
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